武将列伝(プロフィール) |
金城の生まれ。涼州で反乱をくり返す韓遂の腹心となる。韓遂の死後請われて曹操に降って軍師に任命され列侯に封じられたが、飽くまで旧主に対しての忠節を忘れず曹操から敬愛された。三頭の鹿を三本の矢で射止め、張既の参軍として別働隊を率いて蛮族に勝利したなど武勇が伝わっている。魏成立後、涼州へ赴任する途中に病死した。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
12 | 5 | 突進・突破・騎射・走射・飛射・斉射 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
75 | 76 | 80 | 62 | 173? | 4 | 48 | 忠義 | 冷静 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
成公 | 英 | セイコウエイ | 不明 |
武将列伝(プロフィール) |
劉虞の長男で、後漢朝に出仕。長安からの洛陽帰還を願う献帝の書簡を携え、父の下に向かおうとするが、道中に袁術に捕縛されてしまう。辛うじて脱出するも、次は袁紹に抑留された。抑留中に父が公孫瓉に殺害されたことを聞くと袁紹軍に志願、従軍して父の敵を討った。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
8 | 7 | 突進・突破・騎射・井蘭・造営 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
59 | 56 | 54 | 61 | 170? | 4 | 96 | 臨機 | 冷静 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
劉 | 和 | リュウカ | 不明 |
武将列伝(プロフィール) |
鉅鹿郡の人。もとの姓は馮。袁尚の主簿(事務長)となり、袁譚攻撃に従軍。曹操軍が鄴城を包囲すると計略を立てて城内に潜入して審配と連絡を取り、再び計略を用いて城外へと脱出した。中山で袁尚が敗れると袁譚に主簿に任命されるが、袁譚が敗死すると最後は曹操に仕えた。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
6 | 8 | 突破・投石・混乱 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
57 | 62 | 71 | 62 | 168? | 4 | 42 | 臨機 | 冷静 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
李 | 孚 | リフ | 子憲 |
武将列伝(プロフィール) |
益州牧・劉璋の子、蜀将・劉循の弟。別名「劉緯」。劉備の入蜀後、父に従って公安に移住したが蜀の荊州総督・関羽が敗死したため、父と共に呉に下った。父の死後、呉の対蜀工作の一環として益州太守を拝命して交州に赴いたが、諸葛亮ら蜀将が西南夷反乱を鎮圧したため、呉に帰還し御史中丞となった。慎み深く財を軽んじる性格で、義を愛する親分肌な性格だった。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
8 | 6 | 奮戦・斉射・鼓舞 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
57 | 59 | 52 | 49 | 186? | 4 | 55 | 臨機 | 猪突 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
劉 | 闡 | リュウセン | 不明 |
武将列伝(プロフィール) |
荊州刺史・劉表の子。学問に優れ、詩・賦・頌六編を著し、官は東安の太守にまで昇進した。ただ、些末な間違いを捉えて他人の学問を非難するような狭量なところがあった。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
6 | 6 | 造営・混乱・罵声 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
21 | 23 | 66 | 71 | 198? | 3 | 45 | 臨機 | 慎重 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
劉 | 脩 | リュウシュウ | 季緒 |
武将列伝(プロフィール) |
広陵郡射陽県の人。体格・容貌とも立派で、孝廉に推挙されたが官を辞して下野。その後張超(張邈の弟)に功曹として招聘された後、董卓が少帝を殺害すると、張邈・張超兄弟を説いて挙兵させた。劉虞への使者に抜擢されて、袁紹と会見すると高く評価され青州刺史に任命される。二年の任期中に盗賊たちを駆逐して袁紹を驚愕せしめた。その後、張邈・張超兄弟が呂布を煽動して曹操と敵対した。張兄弟の救援に向かうつもりであったが、袁紹に聞き入れられずに兄弟が戦死したため、袁紹を恨んで造反。大軍を相手に奮闘したが捕縛された。藏洪の能力を惜しむ袁紹は何とか再び配下に加えようとしたが、結局果たせず藏洪を処刑させた。 |
武将列伝(プロフィール) |
孫孺(字・仲孺、孫堅の又従兄弟)の子、孫策の族兄。出仕して郡の主簿(事務長)・功曹(補佐官)となったが、孫堅が挙兵するとこれに従軍、手柄を立てて郎中に任ぜられた。孫堅死後は呉景・孫賁らと同じく袁術配下となり、汝南太守を拝命。呉景・孫賁は孫策独立後に出奔したが、孫香は最後まで袁術のために奔走し、征南将軍を加官されて寿春で没した。 |
武将列伝(プロフィール) |
金城の人。閻艶とも。幼少のころから武勇を謳われ、小部隊の隊長として韓遂に従って馬騰軍閥と戦った。その折り、馬超(馬騰の嫡子・後の蜀の五虎大将の一人)と戦ってこれを半殺しにしている。後に韓遂の使者として曹操の下に赴くと、老父を引き取とってもらうように請願した。曹操も手厚くもてなし、郡太守に任じた。後に韓遂が馬超と組んで反乱を起こすことに反対、韓遂の末娘を無理矢理娶された。西平郡の統治を任じられると韓遂に叛逆したが、敵わず曹操の下に降伏した。 |
武将列伝(プロフィール) |
袁紹配下の将。恐らく、郭図・郭嘉などと同族で潁川郡の人。袁紹の子・袁尚に仕え、河東太守に任ぜられる。袁紹の甥・高幹とともに楽進・李典や賈逵など曹操配下の勇将・知将を破るも、馬騰が派遣してきた馬超・龐徳の攻撃を受け、敗北。龐徳に首を斬られた。なお、馬超・龐徳など討伐軍の総指揮の任にあたっていたのが伯父の鍾繇であったという。 |
武将列伝(プロフィール) |
恐らく零陵郡の人。荊州刺史・劉表の別駕(補佐官)。韓嵩とともに、群雄として中原に角逐するか曹操に服属するかを劉表に迫った。劉表死後、多くの荊州豪族たちとともに曹操に下る。はじめは武陵太守、後には漢朝の尚書令となり、文帝即位による魏朝創立後も引き続いて尚書令の任に当たっている。 記憶力に優れ、老荘学に造詣の深い人物だった。反面、劉表を侮辱した曹操に対して、故事を引いてそれとなく論駁するなど、意外な気骨も見せている。周不疑の族父。 |
武将列伝(プロフィール) |
零陵郡の人。幼少の頃から並外れた才能と優れた理解力を有していた。曹操にも将来を嘱望され、曹沖(デフォルト武将。曹操最愛の子で並外れた才知の持ち主)の腹心となるように期待され、曹操が娘を娶せようとしたが、固持して肯んじなかった。 曹沖が夭折すると、その才知を畏れた曹操に暗殺された。この際、曹丕が周不疑の才知を惜しんで助命を嘆願しているが、「(曹沖ならともかく)お前に御せるような人物ではない」と暗殺を強行している。享年17歳。このとき『文論』四篇をすでに書き著していたという。 |
武将列伝(プロフィール) |
会稽郡・烏傷県の人。呉将・駱統(デフォルト武将)の父。文武の才に恵まれ、若くして後漢朝の郡に出仕。孝廉に推挙されて尚書令に任ぜられ、やがて陳国の相に抜擢された。当時は袁術が帝号を僭称して、河北の袁紹方の軍閥(曹操ら)と激しく争っていた。治安が悪化して陳国周辺は盗賊が跋扈していたが、駱俊が軍備を増強したお陰で賊の侵入を許す事がなかった。民を慈しみ、安全を守ったため天災も起こらず陳国は常に実りが豊かだった。しかし、袁術からの食糧援助要請を断ったため、恨みを買って暗殺されてしまった。 |