武将列伝(プロフィール) |
劉繇の子。後に孫権に仕える。宴席で酒乱を起こした孫権を諫止するなど剛直な性格だった。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
9 | 2 | 混乱・投石・鼓舞 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
32 | 56 | 71 | 75 | 185? | 5 | 130 | 忠義 | 剛胆 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
劉 | 基 | リュウキ | 敬輿 |
武将列伝(プロフィール) |
蒼梧郡の人。若い頃朝廷で官吏をしていたが、巫県県令を経て交趾太守に。交趾太守として独立を保ち、彼の温厚で謙虚な人柄と名声を慕って多くの名士が身を寄せてきた。後に孫権に服属。したたかな外交戦略を展開し、呉に対して事実上の自治を認めさせつつ蜀の西南夷反乱の扇動に関わっていた模様。士燮死後、一族は呂岱によって滅ぼされた。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
5 | 11 | 斉射・蒙衝・楼船・造営・混乱・鼓舞 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
60 | 46 | 81 | 82 | 137 | 7 | 140 | 我道 | 冷静 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
士 | 燮 | シショウ | 威彦 |
武将列伝(プロフィール) |
呉の名門陸一族の一人。陸凱の弟。太子孫和に仕えていたが「二宮の変」に連座して投獄される。非道い拷問を受けたが、他人に責任転嫁するような証言をしなかった。後に交州方面で異民族の反乱が起こると交州刺史を拝命して鎮圧にあたったが、専ら帰順の勧誘につとめて反乱の首謀者たちを服属させて安南将軍に昇進。また蒼梧・建陵などで反乱者を討伐するなど軍事的才幹にも長けていた。塩害に苦しむ任地で灌漑整備を行うなど善政が記録されている。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
8 | 6 | 奮戦・斉射・連射・楼船・闘艦・衝車・造営・教唆・心攻・鼓舞 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
72 | 55 | 79 | 81 | 200? | 5 | 122 | 臨機 | 冷静 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
陸 | 胤 | リクイン | 敬宗 |
武将列伝(プロフィール) |
会稽郡上虞県の人。暦数・風気の術に通じているとして朝廷に推挙され、後に孫権に身を寄せる。対黄祖戦の成否・劉備の入蜀・関羽の捕縛など次々と予言を的中させ、騎都尉・太史令に任命されたが、術の詳細を孫権に教えなかったことで不興を買った。一本気で自矜の念が強かったが、孫権の勘気にふれた親友の魏滕の助命を命がけで行うなど友情には篤かった。226年に病死。孫権は呉範にかわる術者を領内から探そうとしたが、結局果たせなかった。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
6 | 7 | 突破・石兵・罠破・教唆・混乱・治療・妖術 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
49 | 43 | 89 | 65 | 155? | 6 | 128 | 臨機 | 剛胆 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
呉 | 範 | ゴハン | 文則 |
武将列伝(プロフィール) |
呉の名将・朱然の子。五渓の異民族討伐に従軍し、大胆さと実行力を賞賛された。盗賊の取締にもあたったが厳格な性格で法を曲げることがなかった。朱然死後にその位階・官職を継承。諸葛恪・諸葛融が誅殺されるとその軍権を継承し、驃騎将軍に昇進。孫綝一族による専政が始まると国政の混乱に魏が介入してくることを警戒して蜀にその牽制を依頼した。晩年には左大司馬にまで昇進し、父・朱然の本来の姓である施姓に復帰することを願い出て許された。270年没。 |
武将列伝(プロフィール) |
呉の名将・陸遜の弟。若い時から学問を好み、義に篤かった。若い頃は仕官せずに在野で陸績の遺児を育てていたが、後に孫権の下に出仕した。公孫淵との外交問題などで孫権が激怒するたびを諫めている。人物鑑識眼に優れ、欠点をあげつらう人物批評を好まなかった。239年没。 |
武将列伝(プロフィール) |
会稽郡山陰県の人。若い頃から高い評価を受けていた兄・鍾離駰と対照的に鈍重で口下手だったが、兄の駰だけがその才能を見抜いていた。南海太守・前将軍など要職を歴任し、任地の山越族を服属させるなどなど異民族対策で功績を挙げた。蜀が魏晋に併呑されると呉の西方が脅かされると武陵太守として国境に赴任し、反乱をたくらむ異民族を撃滅している。死ぬまで最前線に赴任し、在職のまま亡くなった。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
11 | 4 | 奮戦・斉射・連射・蒙衝・楼船・投石・心攻・鼓舞 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
78 | 75 | 70 | 71 | 208? | 4 | 130 | 忠義 | 剛胆 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
鍾離 | 牧 | ショウリボク | 子幹 |
武将列伝(プロフィール) |
孫静(孫堅の弟)の三男、孫瑜の次弟。護軍校尉を任ぜられ2000名の兵を統率、度々南下してくる魏軍を防衛し武名を上げる。都護征虜将軍に昇進して程普に替わって夏口防衛の任に当たり、孫瑜・黄蓋没後はその麾下の指揮まで任された。部下が拉致してきた魏の美女を送還したり、財貨を惜しまず士人と交際した。対関羽戦では呂蒙軍の後詰めを勤め、戦役の勝利に貢献したが直後に病没した。219年没。 |
武将列伝(プロフィール) |
孫堅の同母兄・孫羌(字・聖台)の子息。若い内に両親を亡くし、幼い弟・孫輔を大切に育てた。後に孫堅が挙兵すると幕下に加わったが、孫堅が戦死したためその軍団を統率して棺を故郷に送り届けた。袁術に出仕して征虜将軍・豫州刺史として袁紹方の周昴らと争ってこれを破った。袁術が帝位を僭称すると妻子を捨てて出奔、独立した孫策に身を寄せた。豫章太守に任じられ、朝廷からも正式に豫章太守・征虜将軍に任じられた。219年没。 |
武将列伝(プロフィール) |
孫賁の弟。揚武校尉として孫策に従軍して三郡平定に貢献。丹陽七県征討時には歴陽にとどまって袁術の侵攻に備え、宣撫工作を一任された。自ら陣頭にたって敵将を捕らえるなど武勇に優れ、征南将軍・交州刺史を拝命する。しかし、孫権が後継するとこれを危ぶんで曹操に内通したことが発覚、側近たちは全て斬刑、部曲は解体させられた上に東方に強制移住させられた。 |
武将列伝(プロフィール) |
孫賁の子。生まれつき鋭敏な頭脳を讃えられ、9歳で父にかわって豫章太守の職務にあたった。20年近くの任期中に反乱者を鎮圧して治績を挙げて武昌に召還された。威遠将軍として夏口の督などを勤めたが、立派な手腕を発揮した。太常・潘濬が舒燮を処刑しようとするのを思い止まらせた逸話が伝わっている。249年没。 |
武将列伝(プロフィール) |
諸葛瑾の三男。恪・喬のつぐ三男。生まれながらの貴公子で、享楽的・鷹揚な性格。経書の解釈を学び、知らぬことはなかった。技芸に通じ社交上手で、正式な官爵を授与される前から君前に侍ることもあった。父の死後、公安に駐屯したが父や兄(恪)と違い華美な軍装を好んだ。魏軍と戦ったおり、朱績を援護しなかったために不仲となった。兄の恪が孫亮に誅殺され朱績らが捕縛に派遣されてくると、捕縛を怖れて服毒自殺した。253年没。 |
武将列伝(プロフィール) |
北海国営陵の人。北海相・孔融に仕えた後に江東の劉繇の下に身を寄せたが、劉繇が敗れると会稽に移住した。孫策死後に孫権から招聘されると、騎都尉として機密任務の処理を任された。関羽征討戦・曹休誘引においても部隊指揮や戦術指導に貢献し、また外交使節として蜀に赴くなど孫権の懐刀として活躍。孫権の子弟の教育を任されるなど全幅の信頼を寄せられた。群臣が孫権に取り入った寵臣・呂壱を怖れる中、ただ一人正論を吐くなど非常に気骨のある人物だった。機会があるごとに他人を引き立て、他人の欠点をあげつらうようなことはなく孫権をして「人が全て是儀のようであれば刑罰は不要である」とまで言わせた。81歳で逝去。遺言通り、白木の棺に平服のまま葬られたという。 |
武将列伝(プロフィール) |
魯粛らに率いられて関羽との荊州争奪戦に参加。後の石陽の戦いでは孫奐の別働隊として淮水流域の敵軍退路を遮断するなどの活躍を見せた歴戦の呉将。生没年不詳。 |
武将列伝(プロフィール) |
部下に暗殺された孫翊(孫堅の三男、孫策・孫権の弟)の忘れ形見。射声校尉・都郷侯に任じられ、巴丘駐屯軍の司令官などを務めたが、231年に死去。人との交際を大切にし、財貨を惜しまずに用立てたため、名声があり、その死去に際して諸葛亮が弔文を送っている。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
11 | 5 | 奮戦・突破・突進・斉射・蒙衝・衝車 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
69 | 71 | 45 | 42 | 199? | 0 | 125 | 忠義 | 猪突 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
孫 | 松 | ソンショウ | 子喬 |
武将列伝(プロフィール) |
義陽郡の人。劉備が入蜀を果たすと零陵郡太守を拝命。魯粛・呂蒙らが関羽を攻撃した時、長沙・桂陽の太守が降伏する中状況が不利になるまでは降伏を肯んじなかった。一旦は蜀に復帰したものの、呂蒙による荊州侵攻で関羽が敗死すると再び呉に帰順、廷尉にまで昇進した。朱拠とともに降将・隠蕃の才能を称揚したが、後に隠蕃が謀反の疑いで誅殺されると孫権の問責を受けたため自殺した。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
5 | 11 | 斉射・造営・混乱 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
59 | 51 | 49 | 67 | 174? | 5 | 105 | 功名 | 慎重 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
郝 | 普 | カクフ | 子太 |
武将列伝(プロフィール) |
呉の名将・陸遜の孫(陸抗の子)、陸景の弟で、陸雲・陸耽の兄。晋将・張華に実力を認められ、弟の陸雲と揃って顕官を歴任した。成都王・司馬穎に仕え、平原の相を拝命。「八王の乱」の時、後将軍となって軍の指揮を任されたが、軍にコネを持たなかったため命令違反者が続出して敗戦が続いた。司馬穎に仕える宦官・孟玖の讒言を受けて謀反の疑いをかけられて陸雲・陸耽ともども一族皆殺しにされた。詩文に優れ、天下の人々は無実の罪で死罪となったことを悼み悲しんだと言う。六朝期を代表する詩人の一人と言える。 |
義理 | 野望 | 兵 法 | ||||||
8 | 6 | 奮戦・斉射・楼船・投石・罠 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 生年 | 寿命 | 相性 | 信念 | 性格 |
65 | 52 | 87 | 79 | 255? | 6 | 122 | 臨機 | 冷静 |
姓 | 名 | ル ビ | 字 |
陸 | 機 | リクキ | 士衡 |
武将列伝(プロフィール) |
呉の名将・陸遜の孫(陸抗の子)、陸機の弟。陸機と同じく、張華に実力を認められて晋の顕官を歴任。呉王・司馬晏に仕えて地方官となり、思いやりのある統治を行って生前から祠をたてられるほどだった。「南征の賦」をつくって兄・陸機を称揚したが、後に兄に連坐して無実の罪で処刑された。兄に及ばぬものの詩文に巧みで、議論に関しては兄以上であったと伝えられている。 |
武将列伝(プロフィール) |
呉の宿老・張昭の甥(弟の子)。20歳の時に大型衝車(攻城兵器)を開発し、歩騭の推挙を受けて軍に入る。年少を理由に軍隊入りを渋った伯父・張昭に対して、故事を引いて説得。将軍に任命され兵を預かるやいなや続けざまに手柄を立て、平州都督にまで昇進して楽郷亭侯に封じられた。 |
武将列伝(プロフィール) |
周魴の子。文武両道で、天紀(277〜280)年間に東観令・無難の督となった。後に晋朝に出仕して御史中丞を拝命。不正の糾弾にあたり、権力者相手でも容赦することがなかった。斉万年が帝位を僭称して反乱すると、建威将軍に任じられて西方に出征。自ら陣頭に立って奮戦するも、衆寡敵せず敗死した。 |
武将列伝(プロフィール) |
北海郡の人。はじめ孔融(孔子の子孫で北海太守。いわゆる「建安七子」の一人)に功曹(補佐官)として仕え、才能を賞賛された。後に劉繇を頼って江東に赴き、孫策ついで孫権が江東を制するとその配下となった。献策と宮廷儀礼の制定などの功が認められ、車騎長史・廬江太守に昇進。黄武初年(222)には、周囲の予想を覆して張昭を差し置いて呉王朝の初代丞相に就任した。讒言を受けて孫権に退任を申し出るなど慎ましやかな性格で、初代丞相であるにもかかわらず個人伝が立伝されていない。225年没。 |
武将列伝(プロフィール) |
広陵の人。呉の「二張」張紘と同郷で、同じく同郷の陳端(字は子正)らとともに孫策麾下に加わる。曹操が南下してくると、張昭らとともに降伏を主張している。史書には常に張昭・張紘の「二張」とともに名前が見えることから最上級の幕僚として遇されていたことが予想できるが、陳端とともに早世した。 |
武将列伝(プロフィール) |
襄陽の人で、元々は賤民だった。後漢末に武昌に移住し、孫権の代になって推挙されて郎官となった。権臣・呂壱を糾弾して抜擢され、諸葛恪の司馬として事務に辣腕をふるった。諸葛恪が失脚すると求めて丹陽太守となって転出、当時郡に来ていた孫休(孫権の第六子)の過失をしばしば糾弾して憚らなかった。 後に孫休が呉の三代皇帝として即位すると、かつての糾弾を理由に処罰されると思いこんで魏への亡命を決意したが妻の諫めによって思い止まる。自ら処罰を願って出頭したところ、許された上に威遠将軍を加官された。 |
武将列伝(プロフィール) |
呉郡呉県の人。呉の丞相・顧雍の孫で、顧穆の子。顧承の従弟。呉に使えて黄門侍郎・太子輔義都尉などを歴任。後に陸機・陸雲らの推挙で晉に仕えても尚書郎・廷尉正など顕官を歴任したが、「八王の乱」に遭って絶望して帰郷した。その後、晉の元帝(司馬睿・東晉の創始者)が江南に逃れてくると軍司馬に任じられるなど厚遇され、死後に侍中・驃騎将軍を追贈された。312年没。 |
武将列伝(プロフィール) |
呉郡呉県の人。呉の丞相・顧雍の同母弟で、陳東将軍・顧裕(字は季則。顧穆とは別人)の父。若いときに故郷を離れて学問を修めた。とくに弁舌に優れ、孫権に見いだされて主簿・東曹掾に抜擢された。輔義都尉に任じられ、曹操への使者に抜擢されて見事に勤めを果たし、曹操軍の内情を探り出した。帰国後、巴東太守に転出したが、本格的に重用される前に病没した。 |
武将列伝(プロフィール) |
呉郡呉県の人。呉の丞相・顧雍の一族。齢15で郡の官吏となり、呉朝に出仕後は郎中・偏将軍を歴任。「二宮の変」の折、驃騎将軍・朱拠ら長幼の序が乱れた宮廷を正面から批判して朝廷を挙げて畏敬を受けた。並外れた礼教主義者で、妻とは顔を合わさず、父の死後も哭礼を続けた。四人の息子、顧彦・顧礼・顧謙・顧秘を遺した。 |