楊 戯 (ヨウ・ギ) | 文 然 | (? 〜 261) 「季漢輔臣賛」の執筆者 |
〈能力値〉 統率:43 武力:31 知力:71 政治:63 生年:205? 寿命:3 相性:80 性格:慎重 義理:7 野望:6 〈兵 法〉 保有兵法:斉射・混乱 得意兵法:なし 〈武将列伝〉(プロフィール) 武陽県の人。若い頃から張表、程祁(程畿の子)らと共に名声があり、20歳過ぎで出仕。諸葛亮らに才能を認められ督軍従事(軍内部の裁判官)として事件の判決にあたり、公平妥当な裁きを行った他、太守や射声校尉などを歴任。怠惰で仕事も手を抜く質だったが、他人に取り入るようなところがなく旧友との友情は大切にしていた。降将・姜維に心服しておらず、酒宴の席などで嘲笑したために257年に上訴されて庶人に落とされた。261年死去。著書「季漢輔臣賛」は蜀将を称揚する内容で、『三國志』の編者・陳寿の手によって編集され「蜀書」に納められている。 |
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楊 洪(ヨウ・コウ) | 季 休 | (? 〜 228) 蜀の隠れた名参謀 |
〈能力値〉 統率:61 武力:49 知力:83 政治:67 生年:176? 寿命:3 相性:72 性格:冷静 義理:9 野望:6 〈兵 法〉 保有兵法:斉射・投石・罠破・教唆・混乱・罠・鼓舞 得意兵法:謀略・策略 〈武将列伝〉(プロフィール) 武陽県の人。劉璋に仕えて諸郡の官吏を歴任。その後、劉備配下で蜀部従事となり、漢中争奪戦時には諸葛亮よりの諮問に応えて総力戦を答申、戦役の勝利に貢献した。夷陵の敗北後、黄元が反乱を起こすとすぐさま劉禅の親衛隊を動員してこれを鎮圧、関内侯・忠節将軍・越騎校尉となった。若い頃から学問嫌いだったが、忠義・清潔、誠実・明晰な人物で何祗・王離ら多くの能吏を推挙した。武侯祠(諸葛亮=諸葛武侯を祀った祠)の文官第12席。 |